学問は後、労働が先
先立つのは労働だ
高学歴と呼ばれるような大学に入学すると、とかく「自分は偉いのだ」と思いがちになる。
学歴偏重社会では、勉強ができるという能力を高く評価される、と昔の私は思っていた。
しかし、社会に出て働くとこれは誤りだったことに気づく。
勉強、これ自体に価値はなく、学んだ知識を活用した労働に真の価値があることに気づくのだ。
学歴の持つシグナリング効果
話が少し逸れるが、ここで学歴について考えてみよう。
学歴の持つ最大の効用は何だろうか。
優れた環境で受けられる高度教育だろうか、はたまたそこで手に入れられる人脈だろうか、医師免許や教員免許などそこで手に入れられる資格に価値があるのだろうか。
確かにそれらは学歴から手に入れられる素晴らしい恩恵だろう。
しかし、学歴単体が持つ最も重要な効用はシグナリングであると私は考える。
シグナリングとは、情報を持っているものが、情報を持っていない側へ自分の情報を伝えることを言う。
例えばある人が高学歴の大学出身だと、実家が太い、地頭が良い、努力できる、このような人間であることがだいたい分かる。
実家が太くないと、教育にお金や時間をかける余裕がないし、地頭が良くないと抽象度の高い問題を解くことができない。まして継続力がないと高学歴と呼ばれる大学に入学することは不可能だ。
この学歴が持つシグナリング効果は、企業の採用時でも使われる。
学生側の情報を持たない企業側が手に入れられる数少ない判断基準の一つが学歴なのだ。
高学歴と呼ばれる大学を卒業した学生が就活に有利なのも、良いシグナリングを持っているからに過ぎない。
田舎にとって学歴とは何か
初めの章で「学歴偏重社会」と書いたが、田舎に限ればこの限りではない。
頭脳労働より肉体労働の方が多い田舎では、学歴はことさら重要視はされない。
学歴よりも、肉体労働ができる若くて馬力のある男の方が重宝されるのが田舎である。
では、田舎にとって学歴とは何だろうか。
田舎にとっての学歴。これは家の格を上げるための爵位として使われる。
昔、貴族が朝廷から官位や爵位を貰ったように、お金持ちの家が品や箔、家の格を上げるために手にするのが「学歴」だというのが私の考えだ。
狭い町内で、「あそこの家の子どもは東大に行ったらしいわよ」「向こうは京大らしい。やっぱ出来る家は違うね」と噂になる。
すると出来る家、優秀な家という評判が町内に伝わり、次第に家の格が一つ上がるのである。
学歴で飯を食えるのか
学歴の効用についてこれまで見てきた。
学歴の持つシグナリング効果、家の格を上げるための位(爵位)として使われることを書いてきた。
しかしである。学歴で飯は食えるのか、という問題がまだ残っている。
結論を先に言うと、自分の口を糊するのは学歴ではなく労働だ。
もちろん、学歴があり、スーツを着て、そこそこ人当たりが良かったら、恵まれた現代ではそれだけで飯は食える。人に信用されるからだ。
しかし、学歴を手に入れるための勉強時間を確保してくれたのは誰か、衣食住を揃えた環境を作ってくれたのは誰か、教育費用を捻出したのは誰かを考えてほしい。
働いている親や祖父母だろう。
学問というのは贅沢品であり、それを買うにはお金が要る。先立つものは労働なのだ。
勉強できるのが偉いわけではない。勉強できてるのは、親や祖父母が働いているからだ。
この言葉を忘れず、感謝して生きていきたい。
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