佐賀藩はなぜ薩長土肥に入れたのか

佐賀藩はなぜ薩長土肥に入れたのか

薩長土肥

これは、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前佐賀藩4藩の総称のことである。

幕末の英雄、坂本龍馬を産んだ土佐藩や木戸孝允を始め、松下村塾を開いた吉田松陰、奇兵隊を率いた高杉晋作など倒幕の原動力となった長州藩。

大久保利通、西郷隆盛を擁した薩摩藩がここに入るのはよく分かる。

しかし、肥前佐賀藩がなぜここに入るのか

歴史の教科書では多く語られないことである。

佐賀藩が倒幕の戦列に加わったのは鳥羽・伏見の戦いのあとである。長州藩・木戸孝允に懇願されてのことだったが、新政府軍に加わったのは4藩の中で一番遅かった

佐賀藩の特色。

それは日本で唯一重工業を持つ藩だったことである。

新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いのあと、江戸上野で彰義隊と、会津若松で戊辰戦争を繰り広げるのだが、これらの戦いに悉く勝利したのは、日本全国で佐賀藩だけが持っていた当時世界最新鋭の兵器アームストロング砲が火を吹いたからである。

佐賀藩は当時、蒸気船を製造するドッグやアームストロング砲など大砲、ライフル銃を製造する設備と技術を持っていた。

ヨーロッパの小国にも匹敵する武力と生産力を幕末の佐賀藩は備えていたのである。

それは新政府軍もぜひ加わってくれと懇願するはずである。

佐賀藩が当時日本で最も近代化していたわけ

明治維新に先駆けて、佐賀藩が近代化したのには訳がある。

佐賀藩は、江戸時代長崎港の防備を幕府の命で担っていた

そこにフェートン号事件が起きるのである。

フェートン号事件が起きたのは1808年。ペリー来航の45年前に起こった事件である。

この事件の詳細は、オランダ国旗をかかげて入ってきたイギリス海軍の軍艦が、自国の軍艦と思って近づいてきたオランダ人商館員を人質に取り、食料や物資など不当な要求を繰り返したというものである。

結局、食料や物資を渡し、日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決したが、幕府は警備を怠ったとして佐賀藩を叱責

藩主鍋島斉直に100日の閉門をはじめ、鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。

佐賀藩の近代化はここから始まる。

父鍋島斉直に代わり、佐賀藩の近代化を進めたのは幕末きっての大名鍋島閑叟である。

私も好きな偉人である。

藩の男子は全員義務教育

物理や化学、機械学、造船、航海術を学ばせ、語学はオランダ語や英語を学ばせた。もちろん、理科系の書物を読ませるためである。

重工業に力を入れたのは前述したとおりである。

三百諸藩に先駆け、近代化を目指し、そして鍋島閑叟は生きているうちにそれを成し遂げた。

そして鍋島閑叟が育てた洋式軍隊と藩の有能な人材は、明治初期の国家の屋台骨になっていくのである。

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